直感に身をゆだねること。感性の純度について。

本屋にはいってぶらついていると、本のタイトルがスコーン!と目に飛び込んできて「これ読まなきゃ」と思ってレジに進むことがある。逆に、なめくりまわすようにたくさんの本を立ち読みしたときはだいたい何も買わずに帰ってしまう。

付き合うべき異性や仲良くやっていける友人とは、はじめてしゃべったときに「気が合う」と思う。逆に、合わない人に対しては話しているときの仕草や態度、反応の仕方で「こりゃ違うな」と思う。

何か企画をするときに最初に「これをやりたい!」というのがあったにもかかわらず、ほかの誰かがやってる企画やだれかに話をしているうちにあれやこれも良くみえてしまってと結局なにがやりたいのかわからんくなってしまう。それでも最終的に「ああ、やっぱりこれだ」と最初に戻ってきたりする。

ほかにもいろいろ。

自分がいちいち悩んだり考えたりする前に抱く感覚、いわゆる「直感」というのはけっこう当たるものだ。

「意識:無意識=1:9」理性には限界がある

人間は潜在能力を持て余してると言うが、聞いた話によると人間の脳みその90パーセントは眠っているそうだ。つまりのこりの10パーセントに従って生きているというわけ。なんてもったいないことをしてるんだろう。

その10パーセントにかけてうまくやっていけるならそれで良いのだけど、わたしの場合はその範囲でやっていると「またこれか・・」とマンネリ化するし、そうならないように考えに考えぬいて無理くりだした答えはたいていつまらないものになる。「つまらねェ!!」と嘆いて改良するためにまた悩んでと・・その繰り返し。このループに入ったら良いものはもうでてこない。

それなら悩む前に良いものが出て来ればよいのだが、そのときに残り90パーセントの無意識、つまり直感に頼るのがいいと思っている。

どうやるか?

「こうしたらこうなる」と予想できることをやるんじゃなくて、「こうしたらどうなってしまうのだろう」ということをやってみることだ。これを文字に起こすと簡単そうに見えるが、慣れていないと案外むずかしい。

例えば絵を描くとき。いつもならこう進んで円形にするところを、グイッと真逆にひん曲げる。ひん曲げた直後、どのような形になってしまうのだろうというソワソワ感がつきまとうが、それに耐える。いや、むしろその違和感を楽しみながら続ける。このとき、理性が勝ってしまう人は「こうしたら円形でキレイな形になるから・・」といつも通りのことをやってしまう。

ソワソワ感と戦ったあとに最終的な成果物をみて「なんじゃこりゃ」となるが、たまに当たるときもある。当たりを出すことはもちろん大切だが、自分が10パーセントの範疇を超えてなにかをアウトプットしたんだ!と思えるかってことがもっと重要。

感性の純度

「こうしたらどうなってしまうのだろう」という決断は、その人の勝手な勘からくるものでないと思ってる。それはむしろ日ごろの生活から。自分の日頃の態度や感じ方から決定されているように思える。この道じゃなくて、こっちの道にいったらおもしろいことが待っていると思える感性の純度の高さが必要ということ。

ダンスの世界では、「キッズダンサーのほうが、大人よりも純粋に音楽を感じ取って思うままに踊っている」とよく言われる。思うに大人になるとしがらみ、偏見、思い込みのフィルターが邪魔をしてその人の純粋な感性を鈍らせるのだろう。

年をとるにつれて「こうしたら正解」というポリシーが定まっていくわけ。そのポリシーに従うのがその人にとっての「正解」になってしまうと、そのほかを捨て去ってしまいがちになる。これが極度になるといわゆるガンコジジイが生まれる。新しいアウトプットをするには、思い切ってポリシーをいったん捨ててみることが大切だ。

わたしの好きなギタリスト浅井健一さんが、昔ラジオのインタビューで「家具の配置を考えるときに、なんでベッドを斜めにしたのか、なんで部屋の角じゃなくてこっちに置いたのか、そんなの俺にだってわからないよ。..(中略)..ただ良いと思ったからだ」と答えていた。

良いもの、必要なものというのは説明なんてしなくても、考えようとしなくても胸を打つ。そんな経験、誰でもあるでしょう。じぶんの心から好きな音楽、絵、映画というのは、きっと考えたり説明を受けて好きになったんじゃないはず。無理くり良さを理解しようとしたり、説明を受けて良いと思ったのでは手遅れなのである。素晴らしいインプット・アウトプットをするためにも、感性の純度を日頃から高める意識をもっておくべきだとおもう。

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