想像を超えた作品ができる? 自動記述、オートマティスムについて

自動記述(オートマティスム)との出会いと疑問

昨日、店で酔っ払いながらシュルレアリスムに関する難しそうな本をパラパラめくっていると、衝撃的なことが書いてあった。自動記述(英語:オートマティスム)なるものがあるらしい。まずWikipedaから引用。いきなり文章が重たいかもしれないが、頑張って読んでみて欲しい。

…(前略) 彼が宣言前後から行っていた詩作の実験がオートマティスム(自動記述)と呼ばれている。 これは眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験などだった。半ば眠って意識の朦朧とした状態や、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の中で、美意識や倫理といったような意識が邪魔をしない意外な文章が出来上がった。(引用:Wikipedia:オートマティスム

わたしも絵を描くときや、踊るときにはこれと似たようなことを実践していた。簡単にいうと、何も考えずに、良く見せようともせずに、ただひたすらにとめどなく描き続ける、あるいは踊り続けるというものだ。終わったあと、自分でもどうやったか、どういう流れだったかということを覚えていないことがほとんどなので、どうしても再現性に乏しいわけだけど・・。それでも自分の想像をこえたなにかが出てくると、純粋に楽しいし、新しい自分を発見できる喜びもある。

さて、この手法を「詩作」の分野で取り入れたというのが、わたしとしてはかなりの衝撃だった。絵や踊りは、意味不明でもそれが「美しい」と感じられたらそれでヨシとすることができるが、言葉でそれが可能なのか?という単純な疑問。言葉は意味不明では使い物にならないじゃないか、と思うわけである。

自動記述の実践

じゃあ早速実践してみよう。以下の文章は私が自動記述を行なって書いたもの。アタマを打ったと思わないで欲しい。

「今日の本の天井が光って未来がみえてきたようで宇宙の中に惑星プラネット星がみえてきてロケットにとびのると宇宙人のタロさんがやってきたとおもったらピンクのものがたくさんポラったとやったのさそしたらこぽこくすりの財布が入っていたらまたもや四角い箱が見えてきてオレンジのコードからだをつきまとってボrールとじゃれていたところにおやじがやってきたんだ」

とまあ、今、目をつぶったまましばらくタイピングしてみた。案の定、タイプミスもあるし、意味不明だ。

これがはたして「美しい」とか「おもしろい」といえるのだろうか。自分では笑っちゃったけど、ほかの人がみてオモシロイ文章かと言われると、そうは思えなかった。

自動記述の創始者アンドレ・ブルトンの作品を見る

この自動記述の創始者といわれるアンドレ・ブルトンという人物はどんな作品を残しているんだろう。作品を見る前に、彼のWikipediaのページに書いてある「自動記述について」を引用しておこう。

自動記述(オートマティスム)は、あらかじめ何も予定せず、先入観を捨て去り文章を書き付けるという、主に文学の表現方法(引用:Wikipedia:アンドレ・ブルトン

うん、わたしの理解がズレていたわけではなさそうだ。次に、彼の有名な著作「溶ける魚」をすこし引用してみよう。

「門衛たちは娘をそのまま通してくれたが、もともと彼らは緑の植物だったわけで、カード遊びに熱中して水ぎわからはなれられなくなっていたのだ」(126ページ)

「七面鳥は、この通りがかりの子どもの心をうごかすことができないようなら、自分もおしまいだと感じていた。子どもはそのシルクハットを見かけたが、お腹がすいていたので、その中身を、とくにこのばあいは蝶のくちばしをもつ美しいクラゲを、すっかり呑みこんでしまおうとかかった」(171ページ)

引用:Penny Lane

おお????

わたしは本を実際に読んだわけではないが、こんな文章がただ延々と続くのが「溶ける魚」という作品らしい。わたしの自動記述の文章と比べてみるとわかるが、無意識的に書いたわりにはちゃんとした文章になっている。日本語に訳されているから文章が綺麗に整えられているのかもしれないが、この世にある単語をしっかり使っていて、一応意味は伝わってきた。

自動記述を通してブルトン氏は何がやりたかったのか?

引用ばかりですこし気がひけるが、Wikipediaにはこう書かれている。

無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分達の過ごす現実の裏側や内側にあると定義されたより過剰な現実・「超現実」が表現でき、自分達の現実も見直すことができるというものだった。

「超現実」や「過剰な現実」というのは、シュルレアリスムを語るときによく使われる言葉だが、わたしも説明できるほど深く理解できていないのでこれに触れるのはやめておく。難しい言葉は置いといて、とにかく「無意識に頼る」というのは、自分の知の範疇を超えようとする姿勢であることに違いない。以前、直感に身をゆだねることという記事で、意識と無意識の割合は「意識:無意識=1:9」で、人はポテンシャルを持て余していることを書いた。10%の既知に頼って生きるよりも、90%の未知にかけて新しい自分を見つけに行くほうがきっと豊かな創作ができることだろう。

文章を書く場合だけでなく、絵を描いたり、人と会話したり、何かを企画するときでも、この自動記述的な方法を取り入れて見ると思いもよらものができあがり、自分の視野の狭さを自覚できておもしろいんじゃないかと思う。

ただ、私のような自動記述のど素人がいきなり無意識に頼って書き始めたとしても、感動をうむ作品なんてできやしない。ブルストン氏は猛烈なスピードの自動記述を、毎日のように繰り返していたというが、それと同じように「無意識に頼る練習」ってのが日常に組み込まれていない限り、本当のバカタレが書いたような文しかでてこないので、そこのところの最低限の努力は必要だろう。笑

おわり (またこのテーマについては掘り下げて書こうっと。)

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