「創る」という本然の喜びについて。

日本人であれば岡本太郎を知らない人はいないだろう。わたしは読書家といえるほど本を読まないが、彼の本はすべての日本人が読むべきと思っている。特に「今日の芸術」という本の最初の50頁には、一生をかけて考えていかねばならぬテーマについて書かれている。今日はそこに書かれていることについて私の意見も交えて話そうとおもう。

パクリとまとめ

どうもここ最近は「創造」や、英語でいうところの”Create”という言葉が簡単に使われている気がする。まず創造というのは、まとめやパクリとはまるで違う。

今流行っているまとめ、特に情報のまとめは誰でも簡単に行えて、ある程度多くの人々にとって有意義な情報になる。まとめをつくるほうは手間なくネット上から必要な情報を拾ってきて、一か所にまとめて、うまくやれば収益化すらできる。それで本人が満足しているならそれはそれでいいのだが、この一連の作業を「創造」というのはおかしい。情報がどこかから仕入れたものである以上創っているとは言えない。

まとめは百歩譲ってよしとして、人の作品を盗む「パクリ」はただの犯罪だ。パクリをして自分で「創った」と言い換えるほどおそろしいことはない。ウソをつくのはいろいろとしんどい。

組織の歯車

昼間はたいていのひとが働いている。働く、というのはたいてい組織に属して、誰かと関係をもって動くことを意味する。

雇われの身である以上、組織の歯車として働くのは避けられない。それが悪いこととは言わないが、毎日8時間以上もそうしていると、どうしても組織全体で作っているもの・行っていることの全体像がぼやけてくる。

いつのまにか自分の存在意義はなにかと疑うようになる。疑えているころはまだ純粋な感覚を持ち合わせているということで救いようがあるが、歯車になっていることに違和感すら覚えなくなっていたら危うい状態にあると言える。

自分が何かを創り上げるということ

自分の存在意義はなにか?と疑いはじめたときに、岡本太郎氏がすすめている、いや断言しているのが、自分一人で何かを創り上げるということである。上に説明したように、それはパクリやまとめではない。まして組織の歯車として稼働することでもない。自分の頭をすっからかんにして、本当に自由な心で絵、文章、踊り、歌、音楽、なんでもいいからやってみること。

上手い下手など関係なしに、エゴ丸出しでとにかく自分の力でひとつのことをやり遂げるということである。自分ひとりで何かを成し遂げたときの充足感というのは、他の何にもかえられないほど。

創ったものがだれかに影響を与えられれば最高だが、別にそんなものなくたっていい。「自分が創った」「自分も創れた」そういう感覚を味わって曖昧になった自分の輪郭を取り戻すこと、言葉をかえると「自己回復」することが何より大切。

「創る」という本然の喜びを忘れている人が現代社会にどれほどいるか、ということを岡本太郎は指摘する。彼ほど気持ちの良い人間はいない。

創っている人はおもしろい

本当の意味で「創っている」人は、ただ見ていても話をしても生命力がひしひしと伝わってきておもしろい。創っている人と出会って時間をともにするのは刺激的で、人生が豊かになるように思う。

そして不思議なことに、創っている人と会うためには、自分も創っている必要がある。ぐうたら遊んでいるときにはぐうたらする仲間が寄ってくる。そういう友達ももちろん大切だが、創る喜びを味わって人生を切り開くためにも、まずは自分が動きはじめる必要がある。

おわり

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